ふるさとウォッチング


        湯之神社
  昔,川内川の大洪水があり,上流から木造りの仏像が湯田の地に流れ着いた。人々は大変ありがたく思い,この仏像を湯之権現としてお祀りした。ところが,この像は上流の菱刈郡湯之尾郷のものだということがわかり,気持ちよく湯之尾郷の方へ返すことにした。しかしまた,慶応3年(1867年)に川内川の氾濫があり,この像が湯田に流れ着いてきた。湯田の地に再び来られたと喜び,湯之尾郷の人たちの許しを得て,丁重にもてなしご神体として神殿に祀ることにした。湯田地区では,昭和47年(1972年)に120戸が流されるという大洪水にみまわれたが,その時にもこのご神体はすぐ近くの山林内で発見された。その後神社再興の計画がなされ現在の地に建立され,この薬師如来像(寄木造り,68cm,治病延命・不老長寿)が祀られている。      
(神社境内設置の「湯之神社の由来」より
          
     
    金田一春彦  文学碑
  昭和59年(1984年)12月2日,宮之城町30周年記念講演に来町,その折,この地の湯と人情のこまやかさを歌に詠む。「紫尾山 眺めこよなき 湯のみやこ 生を送らむ 人に幸あれ」とこの温泉地を詠み,「笹の葉を 添えて焼きたる 鮎なれば うまいはずなり 愛のささやき」と鮎に遊ぶ。「あたたかき ゆのわくさとや宮之城 人のなさけもなまやかにこそ」と刻まれた碑の歌は,湯と人に「あたたかさ」をかけた文学的に評価の高い歌である(金田一春彦 文学碑案内板より)金田一春彦は,1913年東京都生まれ(2004年没)日本の著名な言語学者・国語学者であり,国語辞典などの編纂方言の研究でよく知られている。東京大学出身で,「言葉は絶えず動いて変化する」が持論,1940年には,東京府立第十中学校(現東京立西高等学校)の国語教師の経験もある。
 
          岩谷莫哀 歌碑
 岩谷莫哀(1888〜1927)は、明治から昭和初期の歌人。9歳と20歳の時、両親を失い、莫哀という名も、哀しむなかれという意味であるとのこと。明治21年4月宮之城湯田に生まれ(生誕の地の石碑が設置されている)、川内中学校では、今井白楊(歌人)と同窓生であった。東京大学在学中の明治43年尾上紫舟(歌人)の門下生となった。短歌雑誌の創刊・編集、歌集を発行、長い療養生活の、病床で詠まれた歌は、哀愁に満ち読む者の心を打つ。40歳で死去、東京都多摩霊園に眠る。「み下ろせば 薩摩の方へ ひと筋の 川うねうねと 流れたりけり」の歌碑は、旧温泉街の上流にあった国民宿舎「さつま荘」の周辺一帯の中之島公園(立志病院下河川敷)の1角にあったが、大洪水で損傷を受け、現在の所(湯之神社)に移転設置されている。
 

国鉄宮之城線 薩摩湯田駅跡
  昭和9年7月8日に宮之城・薩摩鶴田間(7.6km)が開通、薩摩湯田駅が開業した。駅舎はなく、近くの大銀杏が シンボルになっていた。昭和12年12月12日には薩摩永野・薩摩大口間(18.6km)が完成し、宮之城線(川内・薩摩大口間66.1km・20駅))が全線開通した。昭和37年3月25日には、無人化。昭和62年1月9日最終運行を経て閉鎖した。廃止前は、川内・薩摩大口間を下り7本・上り5本の列車が運転されていた。当時は、川内・薩摩湯田間が約1時間、宮之城・薩摩湯田間が15分かかった。

棒おどり
  島津藩政時代の棒術が、後に踊りに変化して、勇壮活発な踊りが武士の間でも庶民間でも重んじられた。湯田八幡大祭の際には、必ず奉納され、永く受け継がれてきた。流水小の児童が踊るようになったのは、学校創立100周年の1年前前の昭和51年から。棒踊りの特徴は、六尺棒の打ち合いであり、二人打ち、四人打ち、中入り、六人打ちの四節に分かれており、音頭のリズムは山と川を表している。PTA棒踊り保存会を中心に、4・5・6年生と本校卒業生(中学生)が踊り手になり、秋季大運動会で披露、湯田八幡大祭で奉納されている。
棒踊りの歌詞:オセドの山は前は大河 霧島山は黄金花咲く 焼け野のキジは岡の瀬に住む 
山太郎ガニは川の瀬にそう 阿久根の前は広き果てなし 千里が浜の砂の目の数

金吾様 
  戦国時代の武将,島津歳久公は、さつま町全域一帯(当時の祁答院)17300石の領主。役職名が左衛門尉(さえもんのじょう)で、その唐名(日本の官職を唐制の呼び名に当てたもの)を金吾といったことから、地元では『金吾様』(きんごさぁ)と呼ばれ、親しまれてきた。主に兄義久の傍らで作戦参謀として活躍し、島津軍団の方針を左右する立場にあった。この地をよく治めながら、三州統一や九州制圧において、重要な役割を果たす。文禄元年(1592年)、秀吉の怒りを買い、秀吉の命によって兄・義久の追討を受け、『太守に対し矢を放つにあらず、君臣武勇の本分をもって暫時の戦いを励むものなり』の名言を残して竜ヶ水で自刃して果てた。享年56歳。同時に家臣27名も後を追って殉死した。歳久公の史跡・遺跡として、神社が15箇所、供養塔が14箇所、墓・墓跡が8箇所、位牌が6基確認されている。歳久公の人気が地元でどれほど絶大なものだったかを、その史跡・遺跡の多さが如実に物語っている。
 
宮之城温泉
 

宮之城温泉は,古くは湯田温泉と言われ,江戸時代後期に大圓寺和尚により発見され,湯治場として栄えた。昭和7年に宮之城温泉に改名,川内川中流に位置し,国道267号線沿いに,宮之城温泉の看板が設置されている。また,「ちくりんペット温泉」(竹をイメージした看板が目印)が温泉入口にあり,浴舎には,小・中型動物用の川舟を利用した浴槽等がある。竹の子料理をはじめとして,猪や鹿肉などの山の幸や,てながえび,鮎や山太郎蟹などの川の幸の料理が自慢である。泉質は,アルカリ性単純硫黄泉,泉温は50度前後,胃腸痛,リュウマチ,神経痛,筋肉痛等に効能がある。2,3度入浴すると肌が滑らかになり,美容によいと評判である。



 湯田八幡神社

 鳥居の左右に仁王像(左の阿像,右の吽像。いずれも、腕が取れている)が設置されている。鳥居に覆いかぶさるように,大きな御神木のクスノキ,境内の手水鉢の龍は,頭の上に胴と剣が延びている立派なものである。御祭神は,応神天皇,仁徳天皇,玉依比賣命(タマヨリヒメノミコト)神功皇后,島津金吾歳久公とされる。例祭日は十月十日で,川内川まで片道約二百メートルの御浜下りを行う。この時神輿の先導を怒猊が務める。この怒猊(文明四年1473年湯田城主大前道祐奉納)は,子供の災難祓のありがたい御利益ありと信仰厚く,多くの子供連れの参拝者でにぎわった。人皇八十一代安徳天皇の御宇寿永元年(1182年),武蔵高山の住人後藤兵衛実元,餅田太郎左衛門尉,駿河国の住人松下重次,関東の住人日高義家等が関東より下向の砌,相模国鎌倉鶴岡八幡宮の御分霊を負い下り,祁答院湯田郷の,餅坂に於いて,神鏡を教徳坊に授けた。時の院主大前道秀は「之尊神哉」と大いに喜び社地を湯田郷に卜し一宇を建て奉祀した。これが当社の起源である。一説には川内新田八幡の末社とも伝える。文明元年(1469年)渋谷重続再興,天正十三年(1585年)島津歳久再興。文禄の役(1592年)では,島津義弘・忠恒が戦勝を祈願した。(鹿児島県神社庁HPより)

 
宮之城温泉復興の碑
  昭和47年7月6日,北薩地区集中豪雨のため,8時30分頃より川内川の氾濫・洪水によって宮之城温泉街が流失した。家屋の流失数は120戸,学校は当日,午前授業になり保護者同伴の下校,児童にけが等の被害者はなし,夜は,講堂が避難所になり,翌日は臨時休業となった。PTA戸数の30パーセントにのぼる23戸の家が流失,その他多数の家屋が損壊したり床上浸水の被害を受けたりした。その後,26億5710万円の費用をかけて,現在地に温泉街を移転し宮之城温泉を復興,これを記念して昭和51年4月18日,「宮之城温泉復興の碑」を建立,湯之神社内に設置されている。






 
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